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『がばいばあちゃん』でブレイクした島田洋七が「しくじり先生」で語らなかった真相!実は“吉本退社”は事実上のクビだった!!

2016/07/26

「漫才ブーム」で大ブレイクし、再び『がばいばあちゃん』でもブレイクした島田洋七が テレビ界から消えていった真相は?

2004年に出版された自叙伝『佐賀のがばいばあちゃん』(徳間書店)が累計600万部を超す大ベストセラーとなっていながらも、テレビ界から消えていた漫才コンビ「B&B」の島田洋七が、7月18日に放送されたバラエティ番組『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(テレビ朝日系)に登場。過去に事務所移籍4回、コンビ解消6回、副業失敗、参議院選落選などの、しくじり人生を面白おかしく語っていた。いまの若い人たちにはお笑い芸人としてはあまり印象がなく「過去の人」のイメージが強いだろう。そんな島田洋七の過去のエピソードを調べてみた。

「漫才ブーム」で大ブレイク!当事、月給1億円を稼いでいた島田洋七!!

島田洋七は1975年に島田洋八とB&Bを結成し、東京に進出。当時は吉本に所属していたが、漫才ブームで大ブレイクした時は、吉本とは関係がない東京の事務所だった。絶頂期にはレギュラー番組が週に25本以上、月給は1億円近くにもなり、ビートたけしや明石家さんまが頭角を現す前のタイミングで大ブレイクし一世を風靡していた。当時の「漫才ブーム」が去ったのちは仕事が下降線をたどり、一時は全く仕事のない状態になり吉本に出戻った。

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ビートたけしとの友情



80年代前半、「B&B」はビートたけしの「ツービート」と並んで漫才ブームの火付け役となり、たけしと共にお笑い界の頂点に立った。洋七はたけしと気が合ったようで、お互い相方ではなく、2人でコンビを組んで営業のアルバイト、業界用語でいう“ショクナイ”で荒稼ぎした。当時、2人の営業ギャラは1日700万円ともいわれていた。洋七は銀行に金を預ける時間もないほど忙しく、東京の千駄ヶ谷に借りていたアパートの押し入れに札束を積んでいたという。

2人はショクナイで稼いだ金で、憧れの夜の銀座デビューを果たした。

洋七は当時の様子を次のように語る。「たけしがどこかの週刊誌の記事を勘違いして、銀座では1回店に入ると2,000万円かかると思い込んでいた。それを真に受けて、お互い2,000万円抱えて、銀座のクラブに行きました。入り口で店員が『バッグを預かります』と言うけど、2,000万円入っている、もし取られでもしたらと思って『いいです』とバッグを抱えながら店内に入って行ったら、相当怪しまれましたよ」

そして、「普段から高い酒を飲まんから、ボトルの名前もわからん。当時、レミーマルタンというブランデーがはやっていた。たけしに『レミー知ってるか?』と聞いたら、『レミーなんてねえちゃん、知らねえな』と言う。店のボーイが『ヘネシーはどうですか?』と言ったら、『そんな外人は知らねえな』。そんなギャグみたいなやりとりをしてたし、安いところばかりで飲んでいるから落ち着かない。ママに、盛んに『いま帰ったら、いくらですか?』と聞いて、『時間は関係ない。金額は一緒です』と言われた。勘定は2人で13万円でした。ママが気の毒に思って、まけてくれたみたいですね」と当時を振り返った。

その後、たけしが“フライデー襲撃事件”を起こして逮捕され、芸能活動謹慎に追い込まれた。

洋七は「たけしがフライデー事件を起こしたでしょ。マスコミの目がうるさいし、暖かいところがいいやろと、(たけしは)沖縄の石垣島に行ったんですよ。芸能人って、事件を起こすと関わりたくないから、付き合うのをやめる人が多いでしょ。僕の場合は売れる前からの友達ですからね。一人じゃ寂しいだろうと思って、石垣島に何度も行きましたよ。芸能界やめようかなと、弱気な発言もしていました。『北野武という人間が芸能界からいなくなるんだったら、俺だって、広島か佐賀に帰る』と言いました」と語っていた。石垣島で2人の友情がさらに深まったことは確かだろう。

その後、たけしは復帰。お笑いだけでなく、映画監督としても“世界のキタノ”と呼ばれるようになった。

仕事が激減し副業に手をだしたが次々と失敗!

副業に手を出すようになった洋七だが、埼玉県の所沢でラーメン店を開業するも失敗。その後、悪い人間に誘われて、静岡県の伊豆で温泉民宿を始めようとしたが、肝心の温泉が出ずに、だまされて失敗。その後、たけしと後輩の明石家さんまに反対されながらも、六本木に「ゲイ(芸)バー」をオープンした。店に入って来たたけしは、着物を着てオカマに扮した洋七を見て、「ヤメロ! バカヤロー。恥ずかしいじゃねえか。早く、化粧を取れ。金に困っているなら金をやるから、こんな恥ずかしいことはヤメロ!」とマジ切れしたという。さんまはさんまで「兄さん、情けないです。やめなはれ」と止めた。しかし、洋七は「ゲイ(芸)バー」をやめなかったのだ。ところが、関西から客として暴力団関係者が大挙して押しかけ、結局はわずか2カ月足らずで閉店した。副業もしくじった洋七だったが、その後、出版した自叙伝が600万部超す大ベストセラーになり、講演会で全国を飛び回る日々が続いた。

番組では詳しく語らなかったが、『がばいばあちゃん』ヒット後の吉本興業からの退社が彼の一番のしくじりだった!!



洋七は「しくじり先生」で、「がばいは自費出版だったのを新聞記事で見た徳間書店が飛びついて、全国発売した」と語っていたが、真相は違う。自費出版したものの、洋七はどこの書店も相手にされず、洋七が知り合いに「出版社を紹介してくれ」と頼み、徳間書店の書籍部長を東京プリンスホテルで紹介され、前年に徳間から出版された、徳間が出版を承諾したというのが真相だ。

そして皆さんもご存知のとおり、『佐賀のがばいばあちゃん』のメガヒットによって再びブレイク。自費出版から始まり、一度は廃刊にもなった小説が、現在は400万部まで売り上げを伸ばし(海外翻訳版含む)、映画化、ドラマ化、マンガ化、アニメ化と、多方面のメディアにも進出。『がばいばあちゃん』効果によって再び浮上した島田洋七は、テレビに雑誌に、講演にと引っ張りだこの状態だった。そのとき洋七は吉本に所属していたが『がばいばあちゃん』の出版印税をめぐって、吉本の上層部と衝突。当時、吉本の副社長だった大崎洋社長が激怒していた。

スポーツニッポンによると、『がばいばあちゃん』が稼ぎ出した収益金(小説売上だけで21億円強×10%前後の著者印税、メディア展開分の権利料など)の配分をめぐって衝突、島田洋七は退社を決意したようなりよ。島田洋七は『がばいばあちゃん』が売れたのは「自分が地道にサイン会などの活動を続けてきたから」と主張、一方の吉本興業側は「いろいろとサポートしてきた」と平行線をたどっていて、表向きは契約切れということで退社したが、事実上のクビだった。その後、テレビ局からオファーがなくなり、お茶の間から姿を消した。たとえオファーがあったとしても、出演が実現することはなかった。

現在、洋七は大手のオスカープロモーションと契約しているが、キー局の番組に出演しづらい状況には変わりはない。

ちなみに、島田洋七の吉本興業退社は2度目。1度目は1979年、大阪では売れていた島田洋七が地元の広島や、『がばいばあちゃん』の住む佐賀県ではほとんど無名に近かったことに衝撃を受け、全国ネットの放送局がある東京への進出を決意したものの、吉本興業がこれを頑なに認めなかったために衝突。結果的に解雇という形で吉本興業を去り、東京進出の後、大ブレイクを果たし後に復帰。島田洋七と吉本興業の間には今までもさまざまな紆余曲折があり、そう考えると今回の退社も自然の成り行きなのかもしれない。

しかし、洋七の親友のたけしが「洋七のしゃべくりにかなうお笑い芸人はいない」と絶賛するように、彼はしゃべくりの天才だ。現在、すでに入っている吉本興業経由の講演会などの仕事はスケジュール通りこなしていくようだが、消化後は今まで以上に執筆業などをメインにするらしい。『がばいばあちゃん』ブームがどこまで続いていくのか、そして島田洋七が今度どのような人生を歩んでいくのか、「しくじり先生」への出演を機に、再びブレイクすることを期待したい。

 

 

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